「金のいぶき」開発ストーリー
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“水田の油田化”計画をスタートした矢先、
東北と関東を未曾有の震災が襲った。
■水田の“油田化”計画がスタート
この年、秋田県湯沢市が休耕田と耕作放棄地を何とかしたいとの思いから米政策戦略会議を立ち上げ、そのメンバーに日本発芽玄米協会から尾西と事務局長の日浦が加わった。減反によって疲弊した水田を有効活用するのは、新規需要米や加工用米という一般主食用米以外の用途で栽培しなければならない。会議の中で尾西は「米油用のお米を作る。磨いて白米を食べるために作るのではなく、胚芽と糠を絞る目的でお米を作る。白米は副産物。水田をいわば“油田化”する。その原料が東北胚202号だ」と発言した。日頃から玄米食を常食する議長の湯沢市長斎藤光善(当時)もこれに賛同し、試験段階ではあるが水田の有効活用を目指す取組が静かな期待と共に始まった。
■「『尾西の社長さん』が頼むのならやるしかない」
尾西洋次社長と永野先生
秋田県湯沢市が動いたことで、秋田県行政も興味を持ち、協会が主催する原料生育部会合同会議には種子開発を担った宮城県行政も加わり、JA職員など総勢で20名が集まった。食糧ジャーナルを始めとする米や農業関連の業界誌もこの動きに注目した結果、永野が宮城県古川農業試験場でひとり地道に開発した東北胚202号は、にわかに脚光を浴び始めた。
東北胚202号の作付は新規需要米制度にも属さない、米油用の米を作るという全く新しい発想の取組である。趣旨に賛同する農家は当然のことながら少なかった。その中でも試験作付を名乗り出た農家は、尾西がかつて本業の非常食で取り組んだプロジェクトに協力した農家だった。「『尾西の社長さん』が頼むのならやるしかない」この言葉が全てだった。
■東日本大震災の先に見えた希望
その矢先だった。日本発芽玄米協会はその日、米油用の米糠を取り除いた後の胚乳部分の用途開発への試金石とすべく、翌日に控えた米粉料理コンテスト最終審査の準備に追われていた。
2011年3月11日14時46分。東北と関東を未曾有の震災が襲った。主要なインフラは機能不全に陥り、津波によって多くの人命が失われた。そして海辺に近い太平洋側の水田は、津波によって使用不可能な状態に陥った。しかし米作りは一年に一回だ。歩みを止める訳にはいかない。
宮城県石巻市の圃場での試験作付
被害の無かった秋田県の圃場とは別に、宮城県石巻市の圃場でも試験作付を行った。そこではもちろん満足な肥料も、確かな技術に裏付けられた肥培管理も出来ない。そもそも経験が生きない。復興もままならない状態で不安を抱えたまま時は過ぎ、やがて収穫を迎える中、尾西を始めとする関係者は驚くべき光景に出会う。圃場には銘柄米の大部分が倒れる中、多くの実をつけながら佇む稲があった。東北胚202号だ。この稲が持つ生命のいぶきは、被災地の困難や無念を飲み込みながら、最後まで立ち続けたのだ。